(リンクフリー 転載・拡散歓迎)  新たな”知”の交流と”志”を求めて

表現者育成講座その1〜/終了レポート

2/13(月)古谷晃一郎(調整事の調整って?)
1975年大阪生まれ。大阪府立プラネット・ステーション事業コーディネータ、財団法人大阪21世紀協会チーフプロデューサーを経てインディペンデントアートコーディネーターに。大阪に根ざした文化・アート・まちのネットワークを駆使し、人をつなぐことを得意とする。おおさかカンヴァス推進事業ディレクター

レポート(吉澤弥生)

 最終回となる第五回目のゲストは古谷晃一郎さんです。大学時代から演劇にかかわっていた古谷さんは、舞台照明や舞台監督を経て、劇団内のさまざまな立場の人やその役割を調整する仕事を担うようになります。一般的には「制作」と言われることが多いのですが、古谷さんはそうした自らの仕事を「コーディネーター」ととらえていました。その後は大阪府立プラネットステーションに三年間勤務し、「アート・コーディネーター」という立場で演劇、美術、映画、音楽の領域で活動する若者をサポートする仕事を担いました。そこでは新たに美術の領域で活動する人々と出会うと同時に、「調整事の調整をする」という役割の重要性を実感し、経験を通して体得していくことになります。
 古谷さんは、調整事の調整という仕事は、家でごはんを作ることと似ていると言います。いろいろな状況に合わせて料理を作るために、どんな食材を冷蔵庫に入れておくかを考える。そのときに鍵となるのは、一緒に仕事をする人の顔や見に来る人の顔を思い浮かべること。つまりコーディネーターの仕事とは、とにかく想像すること、そしてそのイメージを共有することだと言います。こういうとかっこよく聞こえるのですが、その実、クライアントとは制作の条件の面で、作家や演者とは彼らのやりたいこととできる範囲という面で、そしてお客さんに対してはとくに安全といった面で、非常に多種多様の調整事が発生します。その調整事の多様さとそれらに対応するための古谷さんの「冷蔵庫の中味」は、自らがコーディネーターとして手がける新作能「水の輪」の実例を通して明かされました。「水の輪」は、能楽師、美術作家、照明そして子どもたちという多様なアクターによって構成される演目で、水都大阪2009を皮切りに、近江八幡やソフィア(ブルガリア)でも上演されている作品です。
 古谷さんは現在、フリーランスとしてさまざまな仕事を受けています。そして自らの仕事を「アートマネージャー」というよりも、より現場感の加わる「アートコーディネーター」、もっと言うなら「アートプロジェクトコーディネーター」だと言います。最後に、参加者の方からの「コーディネーターの資質とは」という質問に対し、古谷さんは「心配しい」であることと答えました。とはいえ、ただ心配だけすればいいわけではなく、臨機応変な対応、仕事を任せる決断力やそれを見守る忍耐力も必要で、全体を見ながら細部を調整していくというコーディネーターの仕事の難しさがひしひしと伝わりました。
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2/6(月)蛇谷りえ(管理を制する者が自由を制する??)
1984年大阪生まれ。大阪在住。2007年よりアートNPO界隈で数々の文化事業を経験した後、分野にとらわれず個人の思いが社会につながっていくことを妄想しながら実践している。2010年に岡山市内で期間限定滞在スペース「かじこ」を実施。現在は、鳥取県湯梨浜町で生活の拠点「うかぶ」を運営、「かじこ」の次なる滞在スペースの開業に向けて準備中。大阪で「こどもとアートとその周辺のためのプロジェクト[RACOA]」運営。

レポート(吉澤弥生)

 第四回目のゲストは蛇谷りえさんです。蛇谷さんは、大阪市立デザイン教育研究所を卒業後、設計事務所で2年間デザインの仕事をし、2007年から應典院寺町倶楽部の運営するアートリソースセンター「築港ARC」のスタッフとして、デザインや事業の企画を担当しました。その後2010年から、滞在できるアートスペース「かじこ」の運営に携わります。岡山市内の古民家を改装したこのスペースには、三ヶ月半の間に約350人が宿泊し、イベントに参加した地元の人などを含めるとのべ約700人が訪れました。運営は、現場を回すアーティスト二人と状況を俯瞰する学者一人の三人体制で進め、あらかじめ役割を割り振るのではなく、運営していく中でそれぞれが得意なことを分担する形で組織体制ができていったそうです。その後は、大阪市の運営するスペース中之島4117で、子どもとアートにまつわるプロジェクト「RACOA」の企画を担当します。そこでは、参加者を募ってのバスツアーや美術館でのワークショップを、事務局長と丁寧に相談しながら形にしていきました。子ども支援NPOやバスツアーのリサーチも行ない、参考になる部分をさまざまなところから吸収しながらつくりあげていったそうです。
 そして蛇谷さんは、これまでさまざまなスペースやプロジェクトの運営にかかわる中で、組織内で「一人だけに権限が集中したり、負担が偏りがち」という状況に直面し、よりよい組織のあり方、またその組織と社会との関わり方に関心を抱くようになります。と同時に、事務局担当者の助言により企画の意図や成果が行政にしっかり伝わったという経験から、事務局の役割の重要性も痛感します。そして、自身の活動範囲を広げるためにも、その活動の内容に合わせた管理体制を整える=「事務局を作ろう!」と思い至ります。「管理を制するものは、自由を制する??」という今回のタイトルは、その辺りから来ています。
 現在、蛇谷さんは、「かじこ」をともに運営したアーティスト三宅航太郎さんとともに、鳥取で「うかぶ」という拠点づくりに取り組んでいます。各地の滞在型スペースの事例や経営方法、そして組織形態や法律のリサーチを丁寧に進めながら、地元やさまざまな人たちと関係を作り、ひとつひとつ準備を進めているところです。この日蛇谷さんからは、企画者という立場で事務局と接した経験から、事務局という役割の意義と創造性を見いだし、自らが「事務局になる」と宣言するに至る経緯が生き生きと語られました。自らを器用貧乏と称する蛇谷さんですが、アイディアを形にするための方法をさまざまな角度から探ろうとするバイタリティは圧巻で、さっそく参加者からも組織体制などについてさまざまな意見が寄せられていました。

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1/30(月)柳本牧紀(時間とお金とアタシの使われ方)
1994年より財団法人大阪都市協会にて月刊誌「大阪人」の編集に携わる。2002年より、大阪市の芸術文化事業担当。2003年より7年間ブレーカープロジェクト事務局。行政とNPO等を繋ぐアートマネージャーとして活動。財団解散などの諸事情により2010年より大阪歴史博物館勤務。

レポート(吉澤弥生)

 第三回目のゲストは柳本牧紀さんです。もともと「絵本作家になりたかった」という柳本さんは、大学卒業後財団法人大阪都市協会の正職員として、月刊誌『大阪人』の編集業務に携わります。都市協会は1925年に当時の關一大阪市長によって設立された、統計調査や市民運動、文化振興の部門を有する団体で、実質的に大阪市の文化振興財団の役割を果たしていた組織です(大阪市は、全国の政令指定都市の中で唯一文化振興財団を持っていません)。2002年、柳本さんは文化振興事業部に異動し、当時活発化しつつあった市の複数の文化事業のアートマネージャーとなります。そこでは行政と現場の間にある契約書づくり、予算配分、会計管理といった仕事を担いました。そして行政側の立場として、現場にも準備段階からできるだけ足を運び、経過を見守り、言葉使いや考え方が異なる行政と現場との「翻訳者」の役割を果たしていきます。現場マネージャーはよく裏方といわれますが、柳本さんは、自分の仕事は「裏方の裏方だった」と振り返ります。ただ、前例がない仕事ゆえに自分の役割を見定めるのに時間がかかったこと、子育てとの両立など、悩みや苦労も少なくありませんでした。
 2007年に大阪市の行財政改革の一環として都市協会は解散、文化振興事業部は財団法人大阪城ホールに移管されます。引き続き市の文化事業は継続されましたが、その形態は「協働」から「公募を経た支援」へと後退します。ここで柳本さんは三年間継続する公募事業の担当となり、マネジメントと平行して事業評価の方法を模索し始めます。文化事業の現場での感覚を評価に落とし込み、事業継続を合理的に説明することが狙いでした。ところがその財団法人大阪城ホールも解散することが決まり、柳本さんはそれらの事業を途中で手放さざるをえなくなります。現場と行政が翻訳者なしで事業を進めることには懸念もありましたが、今思えば、自分がやりすぎてしまったことで行政と現場が双方のロジックを知る機会を減らしてしまったのかもしれないという葛藤もある、と柳本さんは明かしました。事業の効率的な推進と、役割分担や人材育成といった課題との兼ね合いの難しさがうかがえます。
 現在、柳本さんは大阪市歴史博物館の総務課の契約職員として、10周年記念事業の企画に携わるなどこれまでの経験や関係を活かして挑戦を続けています。そして最後は「みんなもっとアタシを使うてほしい(笑)」と締めくくりました。終始現場を本気で楽しみながら、お金や人や時間を含む「状況」を俯瞰で観察し続けてきた柳本さん。その視点と能力はさまざまな事業現場で発揮されるはずであり、たしかに有効活用が望まれるところです。

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1/23(月)渡邉智穂(NPOや行政などの立場の問題考)
1999年京都芸術短期大学映像学科卒業後、神戸CAPHOUSE椿昇氏のハノーヴァー万博のプロジェクトに参加。その後NPO法人 C.A.P.(CAPHOUSE)のスタッフとして2000〜2008年3月、神戸ビエンナーレ2009ボランティアコーディネーターを2008年8月〜 2009年12月、2010年4月より大阪の芸術創造活動支援事業実行委員会(中之島4117)の事務局チーフ、2011年4月より同事務局長。

レポート(吉澤弥生)

 第二回目のゲストは渡邉智穂さんです。渡邊さんは芸術系の短大を卒業後、神戸のオルタナティヴスペースCAPHOUSEでの美術家椿昇さんのプロジェクトにかかわり、それ以降はそこを管理運営するNPO法人C.A.Pのスタッフとして八年間働きました。このNPOは多くの会員がボランタリーでかかわっており、雇用されていたのは渡邉さんだけでした。仕事内容は多岐に渡り、展覧会の準備や運営やアーティストとの調整、四階建ての施設の掃除やメンテナンス、全国各地からといあわせや視察の対応もしていたと言います。当時アートマネジメントという言葉は使われていませんでしたが、渡邉さんは「今思えばそういう仕事をしていたのかな」と振り返ります。
 そこを離れた後は、神戸ビエンナーレ2009のボランティアコーディネーターを準備段階から終了後までの一年四ヶ月間務めます。このフェスティバルは神戸市直営で実施されており、渡邉さんは民間会社からの派遣社員として組織委員会に入りましたが、行政の組織のあり方やその進め方は「驚きの連続」だったそうです。ボランティアを三〇〇人コーディネートするという仕事は大変な作業でしたが、イベント運営の方法を身をもって知ることができたことはよい経験になったと振り返ります。
 そして二〇一〇年からは、大阪市の事業である「中之島4117」というアートインフォメーションセンターの事務局となります。市の分担金を実行委員会で運営していくという方法がとられ、渡邉さんはそのメンバーとして、市の担当者と、事業を進める企画委員や現場スタッフとをつなぐ役割を担っています。ただ今年度からは事務局長となり、行政担当者とアーティストのいわば通訳として施設管理と事業とを平行して進めていますが、これはかなりの作業量です。また事業全体のディレクターが不在であることや、事業を評価する主体が見えないことなど、この運営形態での改善点も多く見えているようです。
 他にも、大阪の文化政策やその事業現場を外から眺めた印象なども語られました。また渡邉さんは、これまでNPO、行政直営、実行委員会で働く中で、「組織のあり方に興味を持つようになった」と言います。公共が文化事業を行うことの意味もあらためて考えているとのことでした。

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1/16(月)餘吾康雄(ボクの文化行政放浪記)
1994年より5年間、大阪府立森ノ宮青少年会館プラネット・ステーションにて初代制作チーフとして勤務。1999年より大阪市文化振興事業実行委員会チーフ、 2000年より大阪市立芸術創造館にて管理スタッフとして勤務。地域文化活性のための情報誌「C/P(カルチャーポケット)」の元編集人。芸術文化活動にたずさわる若者たちの生の声と実像を肌で感じながら、行政と彼らとのパイプ役を担う。現在は、NPO法人remo、NPO法人recipの理事。

レポート(吉澤弥生)

 第一回のゲストは、この表現者育成講座シリーズの企画者であり、大阪自由大学の事務局を務める餘吾康雄さんです。餘吾さんがイベントプロデュースの専門学校を出て大阪府立プラネットステーションに勤務したのは一九九四年。ここでは五年間、演劇、映像、音楽、美術の分野で表現したいという若者をサポートする役割を担いました。さまざまな事業をおこなう中で心がけていたのは「たまり場を作る」こと。そして若者たちには、この事業は税金で動いているんだよということも意識して伝えていたそうです。
 その後、大阪市の文化事業を手がけるようになり、二〇〇〇年から大阪市立芸術創造館へ移りその管理業務を担当します。市の事業として文化情報フリーペーパー「C/P」の編集にも携わりました。しかし、市の方針が変わったことで事業が打ち切りになったり館の運営方法などが変わったりという経緯もあり、餘吾さんは芸術創造館を離れます。ただこの間に築いた信頼関係がベースとなり、その後も市の事業としていいむろなおきさんのマイムワークショップ安田雅弘さんの演出家育成ワークショップを受託、実施しました。
 一方で餘吾さんは、二〇〇二年からNPOremo、二〇〇四年からNPOrecipの理事を務めながら、主に事業担当としてさまざまな現場を回しています。この間、NPOと行政との関係は協働から委託へと移行しており、背景には大阪の文化政策の変遷もうかがえます。
 近年、文化活動を「公共性」を経由しておこなうよりも、自主的な活動として進めることを選択する若い人たちが増えています。活動の際の選択の幅が広がったともいえるのですが、それでは芸術文化が「社会性」から離れていってしまうことにならないか、そのこと気にかかっているとのことでした。「次々と活動した場所がなくなってきた」と語る餘吾さんのお仕事の歴史は、大阪の文化政策の歴史と重なります。激変の時を迎えている今、大阪の文化の行く末を考える意味でも、長い期間現場を支えてきた方の「生の言葉」を伺えたのは貴重な機会でした。その餘吾さんは、次回からはファシリテーターとしてゲストのお話を引き出す立場となります。どうぞお楽しみに。

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